午前5時半、コタキナバルのダウンタウンにあるホテルの一室。携帯のアラームで目が覚めた。いや、目が覚めたという表現は正しくない。ホテルのエアコンが効きすぎて、寒さで眠れなかった。「風邪ひいてないといいな」が最初に思ったことだ。すぐにお湯を沸かして「尾西の山菜おこわ」に注ぐ。お湯で戻して食べる「尾西の乾燥ごはんシリーズ」は、旅のお供に欠かせない存在だ。ごはんができるまでの15分間で装備の再確認をする。昨夜のうちにリュックと着るものを揃えておいたから、これも問題ない。そろそろごはんができるタイミングに合わせて「タニタ監修の減塩野菜みそ汁」にもお湯を注ぐ。インスタントとはいえ異国の地での和食は落ち着く。部屋の上部にあるダクトからは、相変わらず冷風がぶおーと唸りを上げて吹き下す。時計を見れば6時。明日の今頃、キナバル山の山頂に立てているのだろうかと不安になる。

 キナバル山は標高4095m、マレーシアのボルネオ島にある。富士山を登頂した人が次に目指す山らしいが、にわか山登りの私がその名を知ったのはつい3年前だ。3年前、山の初心者だった私は無謀にもキリマンジャロに登った。「一般人が登頂できる唯一の大陸最高峰」という話は聞いていたが正直登れる自信も根拠も何もなかった。でも、「これから山登りを始めて技術が向上するのと、年々体力が低下するのを秤にかけるなら、早い方がいいのではないのか。」という、これも根拠の薄い理由で決断したのだ。実際、かなり大変な行程ではあったが、ツアーの仲間やサポートのガイド達に助けられて登頂を果たした。これは、かなりの自信になっている。その時知り合った仲間との会話で出てきたのが「キナバル山」だった。6000mに手が届くかというキリマンジャロに比べてその山は4000mそこそこ。手軽に登れて山頂の景色も抜群だという。以来、ネットやガイド本で下調べをしながら実行のタイミングを図っていた。そしていよいよ今日、その計画を実行する。

午前6時半、ホテルのロビーに降りると、すでにお迎えの車が到着していた。緑色のポロシャツを着た運転手は50代であろうおじさんで、肌の色がいかにも現地の人といえる良い塩梅の焼け方をしている。助手席に乗り込み、登山口へ向かう。聞けば今日の送迎は私一人だという。「7時の約束なのに早いね。」「会社からは、ゲストが日本人だ。日本人は7時と言われたら6時半にはロビーで待ってるものだ。だから決して遅れてはならないと言われた。日本人とイギリス人は時間に厳しいから。」そうか、日本人はそんな風に思われているんだ。6時半にロビーに現れた私は、ドライバーにとって予定の行動だったようだ。うれしさと悔しさが交錯する。「朝ごはんは食べたか?」「うん、食べた。」「そうか。もしまだなら途中でコーヒーショップに寄ろうかと思ってたけど、食べたのなら大丈夫だね。」ツアーの日程表には「昼はランチボックスが出るが、朝はないから食っておけ。」と書いてあったのをきちんと守っただけだが、ひょっとすると「朝飯食ってなーい。どこか寄ってくれー。」とゴネるゲストも多いのかもしれない。お利口さんな日本人の私。

それから1時間半、ドライバーは喋り続けた。あまりに喋るので運転は大丈夫かと思える勢いで、しかも英語だ。こっちは中学卒業からほとんど成長していない英語力でなんとか食らいつくが、8割方彼の話を聞く羽目になる。それもただ聞いていれば良いわけでなく、時々「今のわかったか?」と突然こっちの理解度を確認するから油断できない。これはもう英語の授業だ。「俺はマレーシアの市民だかマレーシア人ではない。意味わかるか。」「日本はいい国だ。行ったことないけど。汚職とか何もなくて全てがクリーンで安全なんだろ?」「マレーシアも30年くらい前は良かったんだ。でも今は汚職で国がダメになった。例えば人殺ししても警察官に賄賂出せばつかまらない。もちろんかなりの金額が必要だが。」「日本車は壊れない。やっぱり一番だ。日本ではいくらくらいで車が買えるんだ。」
ノックの打球のように飛んでくる英語のボールを全て受け止めるのは不可能だ。「俺は五輪真弓が好きだ。知ってるだろ?」ドライバーがスマホから五輪真弓を流したころ、遠くに鬼ヶ島を思わせる異様な岩山が目に飛び込んできた。「あれがキナバル山か?」「そうだ、あれだ。」自分が知っているキナバルは、山頂のなだらかな岩壁だけだった。旅行パンフレットに出ているその写真を見て、なんとなくなだらかな稜線を歩くものだと思っていた。イメージと実物のギャップにたじろぎ、こりゃあダメかもと不安になる。登山口に着くと、私の身柄をスタッフに渡し、「あまり話しかけるな。寝ていくからという客が多いが、お前とはいろいろ話せて楽しかった。」と言って去っていった。いや、ドライバーよ、私はほとんど喋っていない。

登山口、ここからスタート。

登山のベースとなるキナバル自然公園本部には入山受付と土産物の小屋が2棟、坂を下ったところに別の建物も見えるが、レストランか何かのようだ。駐車スペースを兼ねた広場では数十人の登山者が思い思いに準備を進めていた。見た所中国系と現地ガイドであろう東南アジア系が多いが、いかにも西洋人種らしいゲストも少なくない。判別不能の言語を耳にしながら、ああ異国の地だという意識が急激に高まってきた。天気は曇りだが蒸し暑く、車中で見えていた山頂は霧に隠れている。

現地スタッフのドロシーは、身長150センチに満たない小柄な女性で、ぽっちゃりとした体型にジーパン姿で現れ、「まさか彼女が登山ガイドなのか?」と不安と安堵が交錯した。不安とは「この小さくていかにも運動できなそうな彼女が、一緒に登れるのか。」、安堵とは「彼女が登れるなら大したことはないだろう。」だ。しかし、案の定彼女はただの受付係であり、一通りの手続きを終えるとガイドを紹介された。うん、そりゃそうだよなと一人で納得したが、ドロシーにそれは言わないことにした。ちなみにガイドの名はジュリアンだ。ジュリアンは身長165センチ程度で小太りの体型である。ドロシーほどではないが、ジュリアンもそれほど強そうにはみえない。丸顔で頭に縞のバンダナを巻いて、背負うリュックには穴が空いている。しかも履物は普通のズックだ。うーん、この人大丈夫だろうかと不安がよぎった。(後に、彼には疲労という感覚を持っていないことが判明する。)

登山道のスタートはジャングルの道である。朝9時過ぎなのに蒸気と熱気でむんとするが空気に匂いはない。もっと何か毒々しい匂いを想像していたから何となく期待はずれでもある。植生が若干違うが、日本の山道とあまり変わらないというのが最初の印象だ。そんな道をジュリアンについて歩く。現地に着くまでは、いったい何人のグループになっているのか、どこの国の人と一緒になるのか不明だったが、実際には申し込んだグループごとにガイドがつくのがキナバル山のシステムらしい。私ひとりにガイドのジュリアンがついて、2人で全行程を歩くのだ。これはこれで気楽なものだが、ちょっと寂しい。でも、登山道で出会う多くの登山者は一人か二人くらいで、自分だけが特殊というわけではなさそうだ。ガイドのジュリアンは37歳で10歳、4歳、そして1歳に満たない3人の子持ち。ガイドの仕事を始めて4年になる。その前に何をしていたのかは知らない。(もしかしたら言ってたのかもしれないが、こちらは英語力に難のある典型的日本人だ。)背は低いが比較的がっしりとした体型だ。ボロボロのリュックを背負い、普通の運動靴でひょいひょいと登っていく。時々「ヨシ、大丈夫か?」と確認したり「ヨシ、この植物有名だ。」とウツボカズラを指差したり、時々すれ違う仲間と挨拶する以外はあまり多くを語らない。

階段が多く、かなりキツイ。
わーい、ウツボカズラ。

登山道はというと、今日は1867mから3272mまで一気に登る。標高差が1000mを超えると自分にとってはおおむね「歯ごたえのある1日」となるが、ここは予想外に厳しい登りだ。なにしろ登山口から宿泊地までたった6キロきかないのだ。たった6キロ歩く間に1400m登るのだ。単純計算で平均斜度が14度。パーセント表示だと25パーセントの急勾配が延々と続くという意味である。行程の半分近くが木の階段になっていて、しかも傾斜もきつい。雨に濡れた階段を踏み外したら、はるか彼方まで転がり落ちるだろう。そんな想像をしながらぐらぐらする手すりを握りしめて登る。

登山道の途中に休憩所。トイレと水道もある。(一応飲める)
配給のランチボックス。

登山道にはおおむね1キロ毎に休憩所があり、簡単な屋根に10人程度が腰掛けるベンチが備えられている。トイレがあり、水道もある。ジュリアンに「休むか?」と聞かれる度に「もちろん休む。」と元気に答え、おおむね5分ほどの休憩、そして登山再開を繰り返す。ランチタイムには支給された蒸し鶏と野菜(カリフラワーと人参)、パン、ゆで卵2個、リンゴ、シリアルバー、クッキー、水500mlを、群がるリスを手で払いながらいただく。ここまで体調は良い。時々雨がパラつくが、その度にカッパを着たり脱いだりを繰り返す。ジュリアンはというと、ゴルフ場で使うような巨大な傘を片手に歩く。登山道はそれほど広くないが、木の枝や藪に引っかかるような場所もなく、確かにここなら傘が一番だろう。見ればガイドは大抵傘派だ。

途中、大きな荷物を背負った歩荷のおじさんに「何キロあるんだ?」と聞いたら30キロあるという。ジュリアンに「彼はいくらもらえるんだ?」と聞いたら「1キロあたり5リンギット。でも今日登ったら明日は降りるだけだから、2日に1回しか働けない。」と返ってきた。1リンギット30円弱だから・・・。大変な割にもらえないことだけは理解した。

4キロを過ぎても道に変化はなく、気の遠くなるような階段と岩場が繰り返し現れる。雨が断続的に降り、あたりがモヤに包まれているから先が全く見えない。このあたりから、息が上がってきた。「ジュリアン!」「何だヨシ。」「疲れた。」「まあ、今朝も眠れなかっただろうから疲れるのもわかる。自分のペースでゆっくり登れ。」ここからは私が先頭でジュリアンが後ろに付く。それにしても疲れている。やはり寝不足だろうか。最近トレーニングを怠っていたから、そのツケだろうか。「キナバルではトレッキングポールは邪魔だ。」という誰かのコメントを信じて、手ぶらで来てしまったことも判断ミスだ。でも、苦しい時も黙って耐えていればいずれ終わるものだ。考えるな。感じるな。ただひたすら体を動かすのだ。そう言い聞かせて無感動に高度を稼ぐ。山頂は、まだ見えない。

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予想外に苦しい登りだが、「5キロ」「5,5キロ」と表示が見えることで、確実にゴールに迫っていることがわかる。もはや心肺機能と太ももは限界に近いが、最後の頑張りだ。そして午後3時、霧の中からいきなり山小屋が姿を現した。唐突にここがゴールだと知らされて、最初は状況が理解できなかったくらいだ。ここまで所要時間は6時間。ジュリアンによれば6時間は特に遅いわけでもなく標準に近いという。「明日までしっかり食べて寝て、リフレッシュして待つように。2時に起きて飯を食ってろ。2時半に迎えに来る。」と言い残し、ジュリアンはガイド用の山小屋に去っていった。

山小屋で与えられた部屋は4人部屋のドミトリーで、同室はデンマークの兄弟2人。兄はジェイソンだが、その場にいなかった弟の名前は知らん。もうひとつのベッドは最後まで空いていたから3人部屋だ。荷物を降ろして、とりあえずベッドに横になる。ほとんどエネルギーゼロ状態で、早く寝てしまいたい気分だが、高所ですぐに寝るのは危険だ。睡眠時は呼吸が浅くなり、高山病の症状が出やすくなる。その高さに慣れるまで寝てはならない。そこで部屋に荷物を置いて、夕食まで食堂で過ごすことにした。体がだるく、階段を降りるのも一苦労だ。食堂には早めに到着したゲストがあちこちで飲み物片手に歓談している。みんな元気そうだ。遠くのテーブルで、途中で抜いていった日本人の若者が手を上げてこっちに挨拶してくれている。彼のところに行って、この日初めて日本語でおしゃべりをする。疲労困憊の身には母国語はうれしい。

夕方、山頂部が見えた。
山小屋の食事はビュッフェ形式。ビーフン炒め美味し。

日本の青年と早めのご飯を食べ、奇跡的に晴れて現れた山頂部を写真に撮ったりなどして、午後5時半には寝床についた。「山小屋の部屋に暖房はなく、かなり寒い。」という事前情報に反して、布団の中はポカポカと暖かかった。これは予想外だ、いったいどういうわけだろうと思い巡らしているうちに、はたと気がついた。これは、熱が出ているのではないか。思えばまさに山小屋のような寒さだったホテル、寝不足、登山の疲れ、多少雨にも当たっている。さっきの夕食の食欲のなさ。ああなんてこった。ここにきて風邪かよ。でも、幸い咳は出ない。デンマーク兄弟に迷惑をかけることもなさそうだ。とにかく寝るしかない。睡眠時間は短いが、明日目覚めた時には体調が戻っていることを祈り、熱さで布団を剥いでしまわないように気をつけながら、とにかくじっと息を殺した。

午前1時50分、スマホの目覚ましで起床。防寒下着に秋用のシャツ、その上にフリースを重ね、さらにゴアテックスのカッパを着込む。登山用の長ズボンの下にはタイツを履いて頭には毛糸の帽子、ヘッドランプもつけた。防寒はほぼ完璧だ。しかし残念ながら体調は良くない。少し遅れて出発するデンマーク兄に「グッドラック。」と声をかけられ部屋を出た。食堂では、2時から2時半までの30分間、軽食を出す。ほとんどのゲストがこの時間に部屋から這い出し、簡単なパンかフレンチトーストを食べ、山頂に向けて出発するのだ。私も甘いフレンチトーストに砂糖入りコーヒーで身体を温め、出発の時を待つ。

午前2時の山小屋

2時半丁度、ジュリアンが迎えに来た。昨日同様の普通のズックだが、それなりの寒さ対策とヘッドランプをしっかり装着している。「おはようヨシ。調子はどうだい?」「まあOK、だけど少し頭痛い。高山病少し出てるかも。」と答える。「OK、ゆっくり行こう。」そうして、ジュリアンと私は闇の中に入って行った。空には下弦の月が細く輝いていて、星も見える。天気がいいんだ。ここから山頂まではほとんどが岩場で、暗いながら視界も良好だ。山の斜面には先に出発したグループの光が点々と見えているが、その数は少ない。富士のご来光登山のような渋滞もない。気温は寒いには寒いが、我慢できないほどでもなく、とにかく一歩一歩登る。しかし足取りは重く、数十メートル登っては休み、息を整える。後から登ってくる人たちにどんどん抜かれながら、それでも途中のチェックポイントには5時頃に到着した。(このポイントは、7時に通過できなければ先に進んではならないというルールがある。)おそらく先頭はすでに山頂に到達しているであろう時間に、自分はまだ行程の半分しか登っていない。しかも登れば登るほど頭がガンガンしてくる。こりゃあ完璧高山病だなあと人ごとのように思うが、苦しさは人ごとにならない。

「ジュリアン、かなり頭痛い。」
「休みたい時に休め。」
「そうする。」

一般的に高山病に罹ったら一刻も早く下山するに限る。というより、それ以外の解決方法は無い。見上げれば急な岩の斜面は残り200メートルくらいだろうか。あそこまでたどり着けば、そこから先は山頂までの緩やかな斜面が待っているはずだ。でも、その200メートルが果てしなく遠い。

人はいずれ死ぬのだから、苦しくなければこういう劇的なのも案外悪く無いのかも。いや、ここでは死ねない。もう少し遊んでから死にたい。それに、ここで死んではならない理由がもうひとつある。すでに昨年に籍を入れて結婚していた長女が「9月に結婚式をする。」と言い出したのだ。ここまで1年以上何も言わずにここまで来たから式はしないものだと思っていた。それが、どういう心境の変化があったのか当初から期するものがあったのかは聞いていないが、とにかく9月に新婦父としての最後のひと働きがあるのだ。妻は早々と他界しているので私までいなくなったら格好がつかない。そもそも今私が死んでしまったら、下手をすると喪中やら何やらで式そのものも吹っ飛ばすことに成りかねず、死んだ後も娘に恨まれ続けるだろう。それは避けねばならない。

「ジュリアン、ギブアップだ。頭痛いの治らん。おそらく下山すると回復するだろうから今回は諦めることにする。」
「そうか、なら小山で戻って少し寝て、それからゆっくり降りよう。」
「ジュリアンごめんな。一緒に山頂行けなくて。でも山は無くならないから、次のチャンスを待つことにするよ。」
「OK、また来ればいい。なんなら3日コースってのもあるよ。中日は1日かけてじっくり山頂に行って、小屋で一泊してリフレッシュして降りるんだ。不安な人はそうしてるよ。」

なにい?そんな方法があったのか。くそう、知ってれば最初からそうしたのに。でもまあ良い。山では絶対に無理しない。これが初心者にできる最低限のマナーでありルールだ。

もう少しだったのになあ

 小屋までの下山途中、朝日が出てきた。振り返ればキナバルの壮大な岩の斜面が朝日を浴びて美しい。ああ、自分はあの辺りまで行ったんだなあ。あと少しだったなあ。本当に無理できなかったのだろうか。死ぬかもなんて思いながら、実は本当に死ぬような状況ではなかったのだろう。頑張っちゃえば行けたのかもしれない。ああ弱い自分。悔しいけど、行けなかった山頂付近をカメラに納めた。

 7時ちょうどに小屋に戻り、1時間半ベッドで眠った。途中でデンマーク兄のジェイソンが戻ってきて、「途中で引き返したよ。」と話したら山頂の写真をたくさん見せてくれた、それらは、自分の手の届かなかった場所という思いが重なって、尚更美しい世界だった。その後食欲がないのを我慢して無理やり朝食を摂り、午前9時半に下山開始。ステップ幅より段差が2倍もある急な階段を降りる足に力は入らず、油断すると膝から崩れ落ちそうになった。それでも降りれば降りるほど空気は密度を増し、ひどかった頭痛は嘘のように退いた。

 2時すぎに無事下山。ドロシーが登山証明書を準備して待ってくれていた。「残念だったわね。これ、登山証明書。」「えっ?登ってないのに?」「そう、これはどこまで登ったかの証明書なの。」見ればオールカラーの登頂証明書ではなく、同じデザインのモノクロバージョンで、到達した高度が「3827m」と記されていた。どういうからくりなのかわからないが、おそらく登頂をあきらめた地点でジュリアンがGPSで確認していたのだろう。結果として登頂は成らなかったが、「富士山を超えた」という点が唯一自尊心を繋ぎ止めてくれた。

下山して、食事をいただく。コーラは別料金で12リンギット

 ジュリアンとはここでお別れ。登山口にある小洒落たレストランでの昼食が料金に含まれていると聞き、ゆっくり食事してから待ち構えていた送迎車に乗り込みホテルに向かった。往きとは違うドライバーは「疲れているだろうから、ゆっくり寝ていけばいいよ。」と一言だけ話すと、車をスタートさせた。しかし、車はぐねぐねの山道を猛スピードで駆け下り、前方の遅い車には容赦無くあおり運転を仕掛けるものだから、とても寝られたものじゃない。ここはつい最近、バドミントンの日本選手が自動車事故で怪我をした国なのだ。「キナバル国立公園で自動車事故。日本人登山客が重体。」なんて記事が思い浮かぶ。シートベルトをしっかりつけて、何かあったらすぐに対応できるように足を踏ん張り前方を直視して1時間半を過ごした。ホテルに着き、無事たどり着いた感謝のしるしに5リンギットをチップで渡したら、喜んで帰っていた。

山頂まで行かない人には、高度を記入した証明書がもらえる。モノクロだ。

 振り返れば散々な旅であった。羽田で受託荷物料金を5万も請求されて「そりゃないよ。」という気分でスタートしたのから始まり。エアコンが暴走する極寒のホテル、高山病、山を降りてからは何に大当たりしたのか2日間トイレから離れられず、たった1週間で1年分の不運を消費した気分だ。しかし、不運を消費したとすれば、これで2020年は平和に過ごせるに違いない。

 帰国して、世の中が新型コロナウイルスの脅威にさらされていることを知った。コタキナバルからクアラルンプールの飛行機、クアラルンプールから羽田の飛行機、東京から山形までの新幹線の全てで私の隣は中国人だった。彼らが中国のどこの出身なのか、それとも台湾の人だったのかは知らないが、濃厚接触のカテゴリーに入るのは事実。今のところ体調は悪くないが、1週間くらいは自重した方が良さそうだ。

追記 (2月12日)
 1月22日に帰国し、あれから3週間が過ぎた。自分自身に体の不調はなく、居住する県に発症者は出ていない。そろそろ大丈夫だろう。

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